本のもつ魅惑
長田弘さんの 『すべてきみに宛てた手紙』 がちくま文庫で復刊されました。 そのなかの「手紙 9 世界は ( あなたの ) 一冊の本」に次のような一節があります。 存在するものは、かならず自分の物語といえるものをもっています。その物語をじっと聴きとる。そして、わたし自身の言葉で書きとってゆく。 「書くこと」は、つまり、「読む」ということにほかならないのです。「書く」とは存在するものの言葉を「読む」ということです。 つい「書くこと」と「読むこと」は別物と捉えてしまいがちですが、「書くこと」 = 「読むこと」であることを再確認したいものです。 また長田さんは「手紙 7 」のなかで、「本のもつ魅惑」について次のように述べています。 本のもつ魅惑は、本のもつ「今」という時間の魅惑です。 「今」といっても、それは刻々に過ぎさる、ただいま現在のことではありません。 ~ 途中省略 ~ 時代の歴史のなかには、そのような「今」という時間が、ゆっくり座りこんでいます。本を読むというのは、そのような「今」を、じぶんのもついま、ここにみちびくこと、そして、その「今」を酵母に、一人のわたしの経験を、いま、ここに醸すことです。 歴史上の過去の人物が書いた事柄は、その当時においては「今」現在であったわけです。それを現在の私が読むということは、その過去の「今」を現在の「今」に置き換えて、あるいは過去の「今」から学んだことから、現在の「今」を見つめなおすという作業があるわけです。それこそが、「本を読む」ことの魅力の一つです。 私が時々読み返す本の一冊に内村鑑三の『後世への最大遺物』があります。この本の中には、誰に頼まれたわけでもなく、隣人たちのために山を掘り、水路を作った兄弟の 話が出てきます。彼らは名も知られることなく、死んでいったわけですが、このようなことは「われわれを励ます所業ではありませんか」と内村は語ります。数百年前のできごとが現在の私を励まし、「今」を考えさせてくれるわけです。 最後に、さきほどの長田弘さんの『すべてきみに宛てた手紙』のなかからもう一つ紹介します。 ( 同書 33 ページ ) 読書するとは、偉そうな物言いをもと...